ミヤコさん
4月も後半に差し掛かりました。
加悦谷平野を囲む山々は、新緑の輝きを見せ始め、外に出て周りを見渡せば、とてもすがすがしい気持ちになります。
オフィスに戻ると、iPadもテレビも新聞もコロナ一色。コロナ疲れも超え、コロナ慣れさえし始めました。
日々の打ち合わせもテレワークが多くなり、ZOOMによるリモート会議もすっかり慣れました。会議招集の案内にも、ZOOMと書かれていて、どこどこなら何分かかるから何時に出なきゃ、みたいな余計なことを考えることもなくなりました。こんな地方でさえ、そうなんだからきっとミヤコさんの京都市、そして大阪東京などもっともっと当たり前に行われてるのでしょうね。
コロナが落ち着いたら、オフィスワークが一変するんじゃないかと思います。あれほど「働き方改革」なんて大声張り上げ、どこもかしこも騒いでいましたが。
やっぱりなにか大きなことでも起こらないと変化なんかできないですよね。
これがコロナでなければ良かったのに!!!!
しかし、このリモート会議、慣れはしましたが、私は正直感じるんです、何か変だと。
モニターの先の相手と話す違和感。会議人数が多いほど増々感じる違和感。タフな会議であればあるほど感じる違和感。
人は、人である前に動物いや生物。地球上に存在する生物で、こんなコミュニケーションしているのは、人間だけじゃないかと。本来動物は、群れて、フレテ、サワッテ、そして子孫を繁栄させる。
要は、群れてリアルにコミュニケ―ションするDNAが基本です。そもそも、モニター越しのコミュニケーションに適合するように人間のDNAはできていないんじゃないかと。
だから、テレワークな社会が到来するとは絶対思えない。
逆に、もっともっとリアルに、群れる、フレル、サワルことを頭ではなく体が反応するのではないかと。
今はまだ、この環境が新鮮だしある意味この変さが楽しいけれど、そのうちおかしくなるのではないかと思ってます。
喜怒哀楽を五感でリアルに捉え、実感するのが人間という動物。それが「生きる」ということでしょ。
おっと、そろそろリモート会議が始まります。
ヨサヲさま
コロナ禍はもちろん恐ろしい。でも、ひしひしと怖さを覚えるのが、人の心です。
みんな気が立っています。
先日、ドラッグストアで「マスク、まだないのッ?」と怒鳴る女性を実際に見ました。京都市内では大学で発生したクラスターが遠方に拡散したこともあって、くだんの大学に脅迫まがいのメールや電話が寄せられています。城陽市では、住民のコロナ感染を知らせるデマ公文書が、壁に貼られる事件もありました。新聞社にも「看護師が夜に外食していた」などと、まるで密告のような匿名電話もあるそうです。
心配な気持ちは理解できるし、ただしく恐れることも大事でしょう。でも、「過剰な怯え」が人の心をすさませています。「まだ渡航制限のない時に卒業旅行して、地域おこしで多くの人と交流して、ふるさとに帰省した」。この行動のどこに、世間から袋だたきに合うような落ち度があったのでしょうか。
これからはさらに。感染した人、していない人。なんとか乗り切れる人、乗り切れぬ人。お金を受け取る人、受け取れぬ人。いろんなところで人が線引きされ、諍いが起きるのでしょう。
私の実家は商店なのですが、ある助成を申請しようと窓口に行くと、長蛇の列。並んでようやく整理券を受け取り、再訪すると「もう締め切りました。次は何も決まってません」と言われたそうです。100口ほどの支援策に、数万の応募もあると聞きました。繁華街ではデパートが早々と休業を決め、小さな商店にも自粛の波が迫っています。「まだ、開けてるの?」の空気ひしひし・・。
こんな折、フリーランスの私もテレワークとやらで、昨日100人ほどのWeb会議に初参加しました。「パワーポイントに音声を入れて公開を」「動画を配信して」などと指示されて、半泣きでマニュアルを読んでいますが、実家や多くの企業の苦境をみると、「こんなことで泣いてる場合じゃない」という気持ちになります。期せずして私にもやってきた働き方改革の波。乗ってみようじゃない!と腕まくりしましたが、日本全国テレワークでネットワークはパンク寸前らしいです。
写真は京都造形大、いや、改名ほやほやの「京都芸術大」(左京区)大階段上に先日鎮座した、高さ3メートルの獅子と狛犬です(写真は獅子)。現代美術家のヤノベケンジ氏が昨年、延暦寺の祭事用に制作し、コロナ感染の終息を願って、構内にこのほど移設しました。
都を見下ろす姿はド迫力。しかし、若者の姿もない閉ざされた門の向こうで、神獣の咆哮はどこか凍り付いているようでした。