コロナをめぐり、「きょうの感染数」「なぜ拡大?」などネットやテレビでは同じような情報が繰り返されています。新聞は、情報のダブリが少ない上、紙面化までダブルチェックを繰り返すといいます。さらに、地方紙には、地域で暮らす読者に役立つ情報が載っています。自然災害や今回のような状況下では生活に寄り添い、強みを発揮するメディアですね。ふだんはネットニュースに押されているアナログな媒体ですが、底力で頑張ってほしいです!
ヨサヲさんが楽しみにしておられたボブ・ディランの来日公演、中止になりましたね。日本の小さな「箱」が好みの彼のライブ、きっと音楽好きのオトナたちで満員だったことでしょう。
今回、大阪のライブハウスで感染された方の分布は驚きでした。全国から40代以上のファンが足を運ばれていましたね。「ライブハウスや小劇場の演劇って、いまやオトナが支えているんやね」と言うと、「ジャンルは違うけど、バイクもそう。若者よりオトナ中心。暴走族とか、むしろ懐かしい(笑)」と友人。
若者が夢中になる「何か」って、次の時代の若者に引き継がれるわけではない。流行や好みって、時代によって移り変わっていきます。漫然と生きていても、そんな変化を体感したり、時代を目撃できることも人生の面白さですね。
普通に生きているだけで結構面白い、私たちの人生。大勢の人のそんな日々が、突然断たれたのが9年前の311でした。
私は毎年、この日と翌日の新聞各紙を買っているのですが、今年はコロナ禍の影響でメディアの特集も少なめだったことは否めません。
でも、ひとつ気づいたことが。昨年は、「希望」「明日へ」的な見出しや写真が多くて、「わずか8年なのに‥」と違和感がありました。しかし、ことしは一転、「悲しみは、まだ癒えない」のトーンに戻りました。たとえば、写真は読売新聞です。同じ3月12日の1面。右が昨年、左が今年です。時間の経過から考えたら、普通は「鎮魂→復興」と、右が新しい紙面に思えませんか。
五輪準備に盛り上がり、観光客も増加の一途だった「無邪気な昨年」から、社会全体がトーンダウン。既にエネルギーが失せて、震災報道にもそれが反映しているようです。
いやむしろ、昨年のイケイケ感こそ被災地を置き去りにしていたのでしょう。「いつまでも悲しんでないで、五輪だぜ!」とせき立てて。
震災10年に向けて、これから私たちはどんな風景を見ていくのでしょう。京都市内にも、被災地からの避難者がたくさん生活しています。世間が右往左往するなか、大事なものを見落とさないようにしたいな、と考えた春の日。友人が被災地から取り寄せた旬の恵みで「セリ鍋」を囲みました。
ミヤコ様
三月書房のニュース、タイムリーにも3月6日の京都新聞梵語にも取り上げられていましたね。井上さんと同じ感度を持って利用されていた方が世の中には多くいらっしゃったんだと。あらためて、残念です。
テクノロジーの進化、ライフスタイルの変化、そして少子化人口減少によって、閉店を余儀なくされる現象は、書店に限らず日本中で同時多発的に起こっていますね。今後はさらに加速することでしょう、そのたびに、残念、悲しい思いが募り、そもそも自身が閉店にならないように生きなければと思うことになりますね。
そして、今まさに日本中を閉館、閉店、閉鎖に追いやる新型コロナウイルスの猛威。毎日実態のよくわからないコロナ情報ばかりで、少々情報疲れになってきた、その矢先、京都府北部にも感染者がでました。 実はこの場所から、東京や横浜大阪で発生する感染者情報は、どこか対岸の火事のような都市部の騒ぎにとらえてたように思います。 だから、このニュースが入った時、みんなびっくりし、過敏に反応しはじめました。このニュースを皮切りにどんどん情報が拡散しまくっています。
天の橋立や伊根は観光客の激減で壊滅的になっているとの噂。
「麒麟がくる」で盛り上がり始めた福知山も、人が来なくなった、さらに追い打ちをかける感染者の出現で市民さえ外出しなくなったという噂。
伝言ゲームで拡散される情報は、知らぬ間に真実が覆い隠され、雪だるま式に大きくなって、正しい情報が把握できない。特にこういう地域では。
地方新聞の存在についてを友人と会話した時、そもそも平時では読まれもしない新聞が、非常時の時、地域にとっては無くてはならない正確な(正確であろう)情報源となるのだと。だから、地方紙が無くなることにはならないのだと。一民間企業の情報でなく、公的な側面さえあるんだと。んん、確かに。全国紙もネットも、この地域のことをわざわざ事細かく情報を伝えはしないですね。
京都新聞3月6日日曜日の京都新聞朝刊トップ。
びっくりしましたが、正確な情報と受けとり、写真を撮って知人にシェアしました。
地方紙の存在、大事です。