ちりめん街道 重要伝統的建造物群保存地区【京都府・与謝野町加悦】

丹後ちりめんと共に生きた町 重伝建 ちりめん街道

参 人間「住民が鉄道をひいた町」

 

鉄道敷設を諦めなかった

現代において、地方の住民が「自分たちで鉄道を走らせる」と考えたとき、その光景をイメージすることができるでしょうか。ちりめん街道のある加悦地区ではかつて、それを実現させた人々が存在しました。

290年に渡る歴史を持つちりめんは、産品の輸送や交通面で恵まれていませんでした。ちりめん商品は価格変動も激しく、丹後から京都市場への輸送は迅速に行うことは、丹後ちりめんの課題の一つ。加悦の誰もが、その交通手段の誕生を待ち望んでいたのです。そんな中、大正11年に改正公布された「鉄道敷設法」の別表に喜ばしき記述がありました。

「京都府山田ヨリ兵庫県出石ヲ経テ豊岡ニ至ル鉄道」

永年の夢だった効率的な丹後ちりめんの運搬手段が、官営によって敷設されることが決定したのです。もちろん住民の喜びは大変大きなものでした。

ところが、不幸な出来事がこの鉄道計画を襲います。大正12年9月1日、未曾有の「関東大震災」が発生し、保管されていた現地測量図及び関係図書の一切が塵芥と帰してしまったのです。このことから政府は、当該線路の敷設を断念せざるを得ませんでした。

しかし、住民たちはあくまでも鉄道の敷設を諦めませんでした。経験ある技師にその設計・測量を委ねて線路の延長距離を算出、車両の中古品等を採用すれば建設費30万円(現在の約1億8200万円)にて建設が可能であるという結論を出したのです。その後公募株式を募集し、823名の出資者を得て、資本金30万円の加悦鉄道株式会社を設立。大正15年12月5日、念願の鉄道営業を開始したのです。

加悦鉄道株式会社

大正14(1925)年に設立された加悦鉄道は、丹後ちりめんの輸送をはじめ、住民の交通手段として活躍しました。全長5.3キロの私鉄として住民主導で敷設されたものです。

佇む子どもたち

加悦鉃道線路で望む天神山・安良山方面と、そこに佇む子どもたち。昭和30年頃。

 

浮かび上がる有力者たち

823名が出資した加悦鉄道ですが、その中には加悦鉄道の取締役に就任した11代尾藤庄蔵氏をはじめ、数名の大株主の姿が浮かび上がります。加悦鉄道の重役を務めた彼らは、やはり丹後ちりめん産業で巨額の財をなした商家でした。

ちりめん街道に存在した有力な商家は、地域社会の発展に積極的に寄与していたのです。さらに、その財力が地域社会に投入されたのは、鉄道だけではありませんでした。時代は遡りますが、地元有力者の手によって幾度となく歴史が作られているのです。

地域の有力者が資金投入した事業

  • 明治44年 ガス発電所の設立
  • 大正 7年 加悦自動車株式会社の設立
  • 大正15年 加悦鉄道株式会社の設立と鉄道の敷設
  • 昭和 4年 加悦町役場庁舎の竣工

これらの全てに、加悦の有力者たちの個人資金が投入されています。住民の代表として、自らの財産で電気を作り、自動車や鉄道といった交通インフラを整備し、町役場庁舎という公的機関まで建設した…。現代に置き換えて考えると、いかに大きな役割を担っていたかを痛感させられます。

また、加悦はあらゆる意味で自立した町でした。政治的・経済的な面だけでなく、住民の精神も自立したものであったからこそ、このような歴史を辿ったと言えます。つまり、有力者だけが町を牽引していたのではなく、住民全体が一体となっていたのです。

11代 尾藤庄蔵

*加悦町長・加悦鉄道代表取締役など数多くの功績を残した町のリーダー的存在。

 

丹後大震災〜復興と100年の展望

歴史は全てが順風満帆とはいきません。現存する旧加悦町役場庁舎の竣工には、一つのドラマがありました。

大正15年、住民の念願だった鉄道営業からわずか3ヶ月後。丹後地区を未曾有の大震災が襲います。昭和2年3月7日午後6時28分 丹後大震災の発生です。
(大正15年12月25日に大正天皇が崩御され、昭和に改元。その数日後に昭和2年を迎えている)

震源地は現在の京丹後市網野町。M7.3の巨大な地震は周辺地区の断層を連鎖的に動かし、夕食の時間だったこともあり、またたく間に火災が発生。加悦地区にとっても大きな被害となったのです。被害総額は317,732円、現在の価値に換算すると、約1億9318万円に上ります。鉄道の営業開始に湧いた加悦地区にとっては、正に出鼻をくじかれる思いだったのです。

さらにこの地震で、加悦町役場庁舎が倒壊。しかし、この窮地にあって、志高くその手腕を振るった人物がいます。それが加悦鉄道取締役に就任した、11代尾藤庄蔵でした。

彼は丹後大震災の翌年、昭和3年に加悦町長に就任し、町役場庁舎の再建に着手。設計は宮津出身の大林組設計部長であった今林彦太郎に依頼しました。今林氏は、甲子園球場を設計した大建築家です。外観は大都市近郊で流行していた洋風住宅の趣を取り入れ、町の復興と向こう100年の発展を祈念した、近代化のシンボルとも言える建築がなされました。

震災より3ヶ月前に営業開始した加悦鉄道もやはり、大きな被害を受けました。しかし、懸命の復旧活動の末、なんと1週間で再開。主に丹後ちりめん製品輸送のために作られた鉄道はこのとき、救援物資の輸送に大活躍したのです。

丹後大震災

丹後大震災

加悦だけでなく、京都府北部の丹後地方広域にわたり、甚大な被害をもたらした。

加悦町役場

加悦町役場庁舎

洋館建築が取り入れられた旧加悦町役場庁舎。昭和10年頃の様子。

この建築がなされた意味

現在、重要伝統的建造物群保存地区(伝建地区)として指定されたちりめん街道周辺には、加悦町役場庁舎の建築を始め、決して絶やしてはいけない貴重な建築史が詰まっています。しかし、ただ結果として貴重だと言えるのではなく、後世に伝えられるべき志の強さが建築という結果に反映されているのです。そしてそこには「人間」の思いの強さがあります。

まだまだ語り尽くせないほどのドラマがあった、加悦の町とちりめん街道。その場所は今、どのような取り組みがなされているのでしょうか。

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