ちりめん街道 重要伝統的建造物群保存地区【京都府・与謝野町加悦】

家族と地域の素晴らしさ 現代に伝えたい時代のリーダー像 第3章

気遣いを絶やさない

11代尾藤庄蔵氏の奥方「つる」さんは、兵庫県豊岡市の由利家から嫁いでこられました。今でも旧尾藤家に保存されている籠に乗って、この加悦に嫁いだつるさんもまた、人間的に優れた人だったと聞きます。

「とにかく教養人。昔の女性だから、表に出ず旦那を支えていた。おつるさんがいらっしゃったおかげで、旦那はしっかり仕事ができていたんだね。近所や使用人への気遣いが抜群で、旦那は使用人に対しては厳しいところもあったようだけど、おつるさんがしっかり支えていたんだろうね。」

古き良き、日本女性のあり方…私はそんなことをイメージしました。そのおつるさんにお会いする事は叶わないわけですが、おそらくは笑顔で人と接し、自分の務めを全うする、そんな方だったのだろう、と。

おつるさんの人との接し方について、興味深いエピソードがあります。

「以前、(小野住職の)兄貴が通っていた大学で火災がおきた。そのときおつるさんは兄貴に、すぐにお見舞いの手紙を出された。非常に美しい文字でね。とにかく、出入りの人や友人知人の消息に、非常に明るい人だった。」

おつるさんにとって、小野住職のお兄さんは、檀那寺の息子の一人、という存在です。全く知らない人では無いにしても、少しでも自分と関わりのある人の消息については正確に把握し、常に気遣いを絶やさなかったことになります。豪商、尾藤庄蔵を陰で支えていたきめ細かさは、容易に想像できるのではないでしょうか。

十一代庄蔵氏の妻 つる

十一代庄蔵氏の妻 つる

誰にでも頭を下げ、物腰柔らかい教養人であったと、今でも語り継がれている。

寄付された育英資金

そして、庄蔵氏の娘、千津さんに関するお話には、思わず目頭を熱くする思いでした。千津さんはもともと体が弱く、16歳という若さで亡くなったのですが、尾藤家のあり方を垣間みることができる大切なエピソードを、住職が語ってくださいました。

「庄蔵氏は娘さんのために、学資としてお金をためていたそうなんだけど、娘さんがあるときこう言った。」

「…父が残してくれたお金で勉強をするつもりだったけど、体が弱く、上級学校までいけそうにありません。このお金は、学ぶ事に対して精力的な方に活用していただけるように、町の育英資金として寄付させていただきます。」

「この育英資金については、加悦町議会の議事録に記録が残ってる。娘さん自身の申し出で、町に寄付することになったんだね」

住職はさらに続けます。「娘さんがそんなことを申し出たのも、両親がよくできていたからだと思う」

十一代庄蔵氏の娘 千津

十一代庄蔵氏の娘 千津

体が弱く、16歳の若さで亡くなった。育英資金の寄付は、尾藤家の豊かな人間性を物語る。

旅先で何と出会うか

庄蔵氏は、昭和3年に加悦町長に就任しています。
それは昭和2年に、丹後大震災という大きな被害を被ったすぐ後の話です。私は当初、この歴史データを目にしたとき、「なぜわざわざ、そんな難しい時期に就任したのか」…その心意気を知りたいと思ったのです。

庄蔵氏は町長に就任後、丹後大震災で倒壊した庁舎をどうするか、という問題に直面します。このとき、会議室だけを別棟で建築するという意見が持ち上がりましたが、庄蔵氏はこれを退けました。そして、自筆のメモでこう語っています。

「町百年の役場ヲ建築シタキコト、町ガ三倍ニ発展スルモ本役場ニテ十分ナリト信スルコト」

庄蔵氏がこのメモを書いた日から、80余年が過ぎました。未来を見据えながら震災復興にあたり、「百年間生き続ける庁舎」の建築を思い描いた庄蔵氏に対し、私たちはどのように呼応するべきでしょうか。

最後に、小野住職はこう語られました。

「観光に来られた方には、この家に住んでいた人がどんな人間だったか、を感じ取って欲しいと思う。」

旅先での出会いは、時に自分の帰る場所の大切さを思い知るものです。もしかしたら皆様の町にも、心から誇りに思える人物が存在したかもしれません。私は「丹後大震災直後に町長に就任した男」の生き方に触れ、得てして盲目の中に隠れてしまいがちな「地域の素晴らしさ」に、改めて気づかされたのです。

現代のちりめん街道には、目に見えない価値が静かに佇んでいます。街道を訪れた際には、どうか先人達の心意気に少しでも触れ、心で感じる豊かな旅としていただければ幸いです。

十一代尾藤庄蔵

十一代尾藤庄蔵の像

旧尾藤家住宅ご訪問の際には、当主がどんな人間だったのか、にぜひ触れていただきたい。

ちりめん街道ウェブサイト > 町の立役者に想う〜第三章「家族と地域の素晴らしさ」