豪商と聞くと、どんなイメージを持たれるでしょうか。事業に成功すれば何でも手に入り、思い通りの生き方や贅沢ができる…。一般的なイメージだとそう考えるかもしれません。
11代尾藤庄蔵氏は、間違いなく豪商と呼べる人の一人でした。ところが、彼が掲げていた「尾藤家心得」には、このように記されています。
「粗末にせぬ事 米一粒炭薪一きれでも粗末にせぬ事」
「無駄をせぬ事 無駄な湯を沸かしたり無駄な炭を熾さぬ事」
尾藤家の家訓はこの他にも、全8条に及びます(左記参照)。小野住職は「家訓が(庄蔵氏の)性格を非常に物語っている」と語ります。お金に不自由しないからと、何でも思い通りにしていいという生き方の人間であれば、このような家訓を掲げる事はなかったのではないでしょうか。現在も京都北部の与謝野町にある旧尾藤家住宅には家具などの調度品が展示してありますが、家族全体で物品を大切に扱っていた光景が目に浮かぶようです。
そしてその調度品にまつわるエピソードから、庄蔵氏の粋な一面が伺えます。
「尾藤家にある調度品は、すべて超一流品。これは商売が上手かったというだけではなくて、文化的素養があったんだね。その素養というのは、11代だけじゃなくて、3〜4代で培ってきたものだと思う。家具なんかは高島屋の特注。超一流の材料を使い、建物から何から、すべてこだわってる」
私は小野住職に「やはり、いいものを見抜く力があったということでしょうか?」と問いかけました。すると住職はこう語ります。
「そうだね。いいものを見抜く素養がないと、騙されて終わりだからね」
さらに庄蔵氏は、現代では薄れてしまった「男の粋」を極めていたようです。
「丹後ちりめんの羽裏(羽織の裏地)に超一流のデザインをした絵柄を用いている。それがまたすごいんや!羽裏っていうのは、普段見える部分じゃない。羽織を脱ぐときに、ほんの少しちらっと見える部分。表に見せるわけではないけど、すごく凝っていた。」
小野住職は、「それが男の粋」と語ります。いかに目立つかといった表面的な生き方ではなく、見えない部分にまで細心のこだわりを込め、あえてそれを見せない。私は日本人が本来持つ奥ゆかしさとは、こういったものなのかもしれないと改めて感じたのです。
世界的な視野と、町を支えるほどの行動力、商売を繁栄させるための手腕と、生き方に深みを与える文化的素養。これらを持ち合わせながらも、子供のこととなると滅法弱い、人間的な一面。庄蔵氏個人にも興味は尽きませんが、さらにその家族の存在に触れることで、尾藤家としての全体のバランスが見えてきます。
ちりめん街道に観光の際は、そんな庄蔵氏の想いを抱きながら観賞していただければいかがでしょうか。