シボの凹凸が独特の光沢感を生む最高級織物「丹後ちりめん」の発祥は、江戸時代、絹織物の生産地として機能していたこの加悦地区に「ちりめん」の製織技術が伝えられたことから始まります。
当時、京都と丹後を往来する中間問屋であった木綿屋六右衛門が西陣の織屋に、100年以上門外不出となっていたちりめん技法の伝授を依頼しました。その後、加悦の手米屋小右衛門と、三河内(与謝野町野田川地区)の山本屋佐兵衛を西陣に送り、技術を習得させたあと、享保7年(1722年)に二人は丹後に戻り、加悦谷にちりめんを広めたとされています。この時を境に、丹後ちりめん織機の数が1台、また1台と増え…享和3年(1803年)には120台を超えるほどになります。
- 現在、ちりめん街道の杉本家住宅の前には「縮緬発祥之地」として、手米屋小右衛門の功績をたたえる石碑があります。
この頃から、光沢が美しく乱反射する丹後ちりめんのように、輝かしい産業発展の時代が始まります。
縮緬発祥の地
丹後ちりめんの流通を支えたのは、重さ60キロにもなるちりめんの品物を、丹後から京都に運び続けた「ちりめん飛脚」たち。屈強で健脚自慢の男達が毎日、背板や天秤かごを使って大江山を越え、その姿が行列をなしていた時代がありました。こうしてちりめん街道は、与謝峠を介して丹後と京都を結ぶ物流の拠点としても発展していきます。
特に明治から大正時代、ちりめん街道の中心にあたる与謝野町加悦の中市から下ノ町にかけては、街道筋にランプ屋・化粧品屋・牛肉屋・呉服屋・料理旅館・人力車屋・駄菓子屋・床屋・うどん製造店・帽子屋などが軒を連ねていきます。丹後方面から京都へ向けて出発するちりめん問屋の主人が人力車の乗り継ぎを行うなど、大変活気に満ちていました。そのにぎわい振りを目の当たりにし、但馬方面から加悦へ遠足に来た子どもたちが「ここは日本か」と驚いたそうです。
一大産業となった丹後ちりめんは、ちりめん街道の町並みにどのような影響を与えたのでしょうか。
この加悦地区では、主屋の一部に丹後ちりめん織機を設置したり、商品の検品をする作業場として使われるなど、住居以外の空間をかねるものが多くみられます。また、店舗なども主屋の中に含まれていることが多く、日常生活の場と仕事の場が密着しているのが特徴です。
また、現在では下村家住宅でのみ見られる「ハタヤマド」は、外から見えにくいよう、かつ明かりがしっかりと取れるよう工夫された構造です。このハタヤマドをもつ建物は、残念なことに後述する丹後大震災で多くが倒壊してしまいました。下村家住宅のハタヤマドは、丹後地方で現存する唯一のものです。
そして、ちりめん街道および、旧加悦駅前通りである「10m道路」はゆったりとした道幅が特徴ですが、これは観光用に拡張されたものではなく、当時道路整備された道幅がそのまま残されているのです。そして、その道路整備に資金を投入していたのは、丹後ちりめん産業で巨額の財をなした商家などの有力者でした。彼らはちりめんで得た利益を町の整備に還元し、住民の生活環境や商業圏を自らの手で整えていったのです。
こうしてちりめん街道は、流通の拠点として、商業地そして生活の場として持続的に発展していきました。産業が人々の生活を支え、近代化と共に貴重な建造物が建てられていったのです。
ここで言う産業とは、ちりめん街道の文化そのものです。産業は金銭的利益を生むだけではなく、本来人間の文化的生活を支えるためのものではないでしょうか。丹後ちりめんは加悦地区にとって、今日まで伝えられる建造物群や町並みに大きな影響を与えた文化的存在だったのです。
しかし、この町並みが保存され続けた理由はそれだけではありませんでした。自らの手で町の発展を支え、地域社会を率先した人物像を掘り下げると「住民が鉄道を敷く」そんな壮大な物語が浮かび上がります。