与謝野町観光協会 与謝野日々是

一社)京都府北部地域連携都市圏振興社
与謝野地域本部与謝野町観光協会
与謝野日々是 > 麒麟はきたけど・・・
ヨサヲとミヤコの往復書簡 京都に憧れる与謝野のヨサヲ。与謝野に憧れる京都のミヤコ。往復する2つの想いは、ただの雑感? それとも…。
麒麟はきたけど・・・ 令和3年2月17日

ミヤコさん

 ミヤコさん、「麒麟がくる」終わりましたねえ。
そもそもこの大河、放送直前よりいろんなアクシデントに見舞われ、麒麟に呪われたような1年でした。それでも平均視聴率20%は4年ぶりとか。大河がマイナー番組になっていく中で、大検討です。出演者やスタッフの皆さん、お疲れ様でした!

 福知山の観光関係者の方とお話ししましたが、「最後の最後に少しだけ福知山が紹介されただけだったけれど、それでも麒麟特需の1年間でした。残念だったのはコロナ禍でお客様が予想の半分、いや1/3だったこと。」と。確かに、私でさえ今まで福知山線の電車の窓越し見るだけだった福知山城に3回行き、東京の知人に福知山産品を2回送り、ミヤコさん指摘の期間限定「ドラマ館」にまんまと2回も入館してしまいました。(笑)おまけに知人を連れて御霊神社も3回案内。さらには、城、神社を訪れた際には、駅前でランチ、おっと、駐車場も利用したぜ。結構、お金落としましたよ!
近隣に住む私ですらそうですから、他府県からの「光秀ファン」「大河ファン」の方も多数訪れ、宿泊されて福知山産業振興に貢献されたことでしょう。
 そうそう、我が町の道の駅内の「野菜の駅」でも「麒麟がくる」コーナーを設け、福知山の産品を販売していました。これがまた夏秋にはよく売れました。コバンザメ商売!
 考えてみれば麒麟はきていましたね。確かにこのコロナさえなければもっともっと麒麟の存在は大きかったことに違いない。コロナ禍にあっても「大河」効果を身近で感じた1年でした。

 ただ、こうした大河ファン、大河ドラマロケ地巡りも、実は60代、70代が主役。そもそも「大河」視聴は60代がメイン。若者は、大河なんて見ない、いや知らない。昨今のテレビドラマロケ地巡りも、視聴率の低迷からそんなにブームになるわけでもない。メディアミックスツアーのあざとさもすっかり見抜かれてしまっているし。
 ミヤコさんも私も数十年若い2021年なら、こんな話、全くしていなかったでしょうね。
 「大河って、それ何?」「テレビ見ないしわかんない。」てな、感じで。

 そういう意味でも、もう大河やアニメ頼みの地域おこし、そろそろ距離を置いたほうが賢明かも。です。

ヨサヲ
ご注意!ドラマde地域おこし 令和3年2月17日

ヨサヲさま

 春は、大学生が人生の宝物・キャンパスライフに別れを告げる季節でもありました。
 東京都の小池知事が会見で「ことしは追い出しコンパもナシ。謝恩会もナシ。卒業旅行もナシ」と連呼し、手で大きくバッテンをしたのを見て、暗澹たる気持ちになりました。
 私たちって新しいスタートを切る前に、「ありがとうとサヨナラ」の儀式が必要だと思いませんか。万感の思いを込めて時間を共有し、出会った人と過ごした日々を抱きしめて。そして、それぞれの旅に出発していきたい。それもアカンとは…。どんなにリモートのメリットを並べても、やはり失われた大切なものの大きさは言葉になりません。

 さて、決定当時からヨサヲさんとの書簡でも取り上げてきた大河ドラマが終わりました。若手俳優主演のドラマが増えるなか、理知的な大人が主人公の物語は毎週楽しみでした。終盤はバッド感満載で画面さえ暗かったけれど、それも好みでした。信長が天下統一後に何をしたか、例えば商業や流通の自由化など功績面はすっ飛ばして、「戦続きの無茶な若殿」のイメージのまま、本能寺を迎えました。
 我らが光秀も翻弄され、主人公なのに統治面がほぼ描かれず。ああ、殺生。亀岡や福知山では智将として本当に慕われているだけに、紹介してほしかったですね。
特に観光に結びつくという本編後のゆかりの地紀行。福知山はギリギリでお城や音頭が紹介されましたが、亀岡に麒麟は来なかった。甲冑姿でPRしていた市長も無念でしょう。
 NHKって正直、けっこう薄情です。2次利用担当の関連会社が、ゆかりの地に期間限定「ドラマ館」を売り込み、設置・運営費は地元負担。館にもランクがあり、衣装展示や俳優来館のオプションで価格も違うと聞きました。公金投入するのだから市民への説明責任も出てくるし、市民はもちろん、関係者は祈る気持ちでしょう。
 京都市内や滋賀、岐阜あたりは何度も登場しているのだから、観光分散の意味を込めて、幅広く紹介すればいいのにね。とはいえ、もう大河やアニメ頼みの地域おこし、そろそろ距離を置いたほうが賢明かも。以前は「男はつらいよ」誘致で地域合戦状態でした。誇りをもって、足もとの宝を再発見しましょう!

 さて、数年前の書簡で「光秀の首塚」を紹介した後始末として、今回は「本能寺跡」を訪ねました。
 秀吉の命で寺町御池に再建されるまではここ、まさしく信長最期の地です。山鉾町に近い都心部ですが尋ねる人も少なく、たたずんでいます。以前は番組小学校の流れをくむ本能小の趣ある校舎がありました。今は高齢者施設と自治会館等が同居するビルになっています。石碑の隣で椿が数輪、咲いていました。

ミヤコ
与謝野町観光協会 会員企業
Page top