ミヤコ様
植物園のアート、興味深く拝見しました。植物園を庭に見立てたアート展示の発想が面白いですね。元気でたくましい若者のエネルギーを感じます。(と、それを許可した植物園側にも拍手。若者のエネルギーに屈したのかもしれませんが、結果オーライということで。)
確かに、元気で優秀な若者たち、いますよねえ。
私も、この町で何か役立ちたいとか、この町を変えたいという思いを持った都会で働く若者たちと会話する機会が増えました。みんな30そこそこの現役ビジネスマンです。都会の生活に疲れ果てた敗者のUターンでなく、都会で鍛え上げた自分の力をこの町で試したい、この町に捧げたいと考える勇敢なUターン希望です。
そんな若者と話していると、こちらも刺激になるし、ぜひ一緒になんかやりたい、やれないかと未来を考えることができます。
時代の価値観がどんどん変化していますね。考えてみれば、今の若者たちの働く環境は、先の事などどうなるか判らない=明るい未来の保証がない。サラリーに関しても、働く年数とともに右上がりになる保証など全くない状況です。また、IT化とグローバル化で世界が想像以上に速いスピードで変化している。未来だと思っていたことがすぐに過去になってしまう、そんな毎日です。
このような環境下で自分が望まない数年間を「忍耐」「我慢」(いかにも美徳な根性論)しても、我々の時代のようなリターンの保証はまったくありません。なら、自分の力を信じて、自分の好きなことをやろうと考えることは、よく理解できます。あるビジネスマンが、今の仕事が準備と思えるなら続けろ、忍耐、我慢なら辞めろと発言していましたが、その通りだと思います。
時代の変化とともに自身も変化しながら生きることが、今の時代。勇敢な若者たちの生まれる理由でしょう。
一番問題なのは、そんな勇敢な若者たちの受け入れ側の想い、考え、態度。
特に地方は、古い価値観の押し付け、過去の成功体験、度が過ぎる縦組織等々、若者が拒絶反応することが蔓延っています。
無限の包容力をもって迎え入れられるか否か。我々の未来は、若者の活躍にかかっています。
ヨサヲさま
水の張られた田んぼに、青空と与謝野の山々が映っていることでしょう。快適な季節は飛ぶように過ぎ、もうすっかり夏ですね。
ヨサヲさんがおっしゃるように、非日常を求めて多くの人が押し寄せる京都に暮らしていると、ふるさとを「乗っ取られる」、これは言葉が過ぎましたか、「差し出す」とはこういうことか、とつくづく思います。
今月からは鴨川の三条大橋から四条大橋の間に風物詩の川床が出て、その前には、こちらもすっかり名物の「等間隔カップル」が、間隔と呼べぬほどの至近距離で並んでいます。多分、大半が観光客でしょう。大橋を行き交う群衆はその光景をスマホで撮影しています。
私たちの日常は、もうそこにはありません。過去には確かに「ここで、生きていた」と実感できる楽しい思い出がたくさんあります。でも最早、ここは「他人のもの」。地元の私たちが歩いても、懐かしい人に偶然出会えるような心ときめく場所ではなくなってしまいました。
では、私たち市民はどこに行けばいいのかしら? そう思っていたところ、先日、実は私にとっては毎日眺める自宅の庭のように当たり前すぎて別に楽しくもない「府立植物園」で非日常を体感しました。京都出身でアートプロデューサーを目指している東京大術大学院生が企画したガイドツアーに参加したのです。
植物園を大きな庭に見立てて、7カ所に設置したアートを巡る内容で1日7回、1週間にわたって開かれました。テーマは時間。たとえば、ヒマラヤ杉の横に建てた、巨大段ボールを4つ重ねた作品は、雨や風に晒されて重力と湿気でどんどん形を変えていき、私が訪ねた日は写真のような姿に。まるで、樹々に囲まれて人工物に生命が宿ったようでした。
植物園に広範囲でアートが展示されるのは珍しく、また、青年は作品へと誘導する道すがら、園の見どころや季節の花、近年の自然災害による被害についても上手に伝えてくれました。「非日常って、こんなに身近にあったのか」と、眼からウロコのことばかりでした。
ところで、ほんとに優秀で素晴らしい若者、いますねえ。彼に会えただけでも感動。与謝野にもぜひ! 写真で麦わら帽姿の自然児のような若者が企画者です。若々しく感度の高い、そしてやさしい眼で、さらに与謝野の魅力を掘り起こしてくれるはずです。