ヨサヲさま
水の張られた田んぼに、青空と与謝野の山々が映っていることでしょう。快適な季節は飛ぶように過ぎ、もうすっかり夏ですね。
ヨサヲさんがおっしゃるように、非日常を求めて多くの人が押し寄せる京都に暮らしていると、ふるさとを「乗っ取られる」、これは言葉が過ぎましたか、「差し出す」とはこういうことか、とつくづく思います。
今月からは鴨川の三条大橋から四条大橋の間に風物詩の川床が出て、その前には、こちらもすっかり名物の「等間隔カップル」が、間隔と呼べぬほどの至近距離で並んでいます。多分、大半が観光客でしょう。大橋を行き交う群衆はその光景をスマホで撮影しています。
私たちの日常は、もうそこにはありません。過去には確かに「ここで、生きていた」と実感できる楽しい思い出がたくさんあります。でも最早、ここは「他人のもの」。地元の私たちが歩いても、懐かしい人に偶然出会えるような心ときめく場所ではなくなってしまいました。
では、私たち市民はどこに行けばいいのかしら? そう思っていたところ、先日、実は私にとっては毎日眺める自宅の庭のように当たり前すぎて別に楽しくもない「府立植物園」で非日常を体感しました。京都出身でアートプロデューサーを目指している東京大術大学院生が企画したガイドツアーに参加したのです。
植物園を大きな庭に見立てて、7カ所に設置したアートを巡る内容で1日7回、1週間にわたって開かれました。テーマは時間。たとえば、ヒマラヤ杉の横に建てた、巨大段ボールを4つ重ねた作品は、雨や風に晒されて重力と湿気でどんどん形を変えていき、私が訪ねた日は写真のような姿に。まるで、樹々に囲まれて人工物に生命が宿ったようでした。
植物園に広範囲でアートが展示されるのは珍しく、また、青年は作品へと誘導する道すがら、園の見どころや季節の花、近年の自然災害による被害についても上手に伝えてくれました。「非日常って、こんなに身近にあったのか」と、眼からウロコのことばかりでした。
ところで、ほんとに優秀で素晴らしい若者、いますねえ。彼に会えただけでも感動。与謝野にもぜひ! 写真で麦わら帽姿の自然児のような若者が企画者です。若々しく感度の高い、そしてやさしい眼で、さらに与謝野の魅力を掘り起こしてくれるはずです。
ミヤコ様
丸山公園のギリヤーク尼崎さん、色々検索して調べ尽くしました。ユーチューブも見せて頂きました。彼の生きざま、まさに「生」を感じますね。(来年も踊られるなら)是非、行きます。
旅や観光の目的のひとつは、日常にはない非日常の体験かと思いますが、その先の究極の体験は、いつもの日常の中で忘れてしまっている「生きている」実感体験ではないかと思います。
日本の、世界の人が求めている京都は、自身の日常にはない光景を観たり、日常にはない空間での食だったりの非日常体験です。私が求めるものは、京都のお寺の本堂、非日常の空間の中で、ひとり仏像と向き合うときの、「生」の実感です。
それが今や東京と変わらない人の数、混雑具合となってしまい、京都に求めるものが無くなっているのが現状なんでしょう。この10連休に京都へ行った東京の友人が、もはや京都は東京だったと言いましたが、この感想は友達に限らず、多くの人が感じているかもしれません。
観光公害とやらで、現状が京都市民の皆さんにとっても不快な日常となると、誰もハッピーでないマイナススパイラルです。ここ数年、このような状況が続くことが予想されますが、なんとかしないといかんなあ。遺憾だなあ。
話変わって、GWが過ぎると、ここ与謝野は田植えのシーズンに入ります。最近は、町の国道を走っていると稲を積んだゆっくり走るトラクターに何台も遭遇しますし、水が張られた田んぼの面積が増えてきたことがわかります。コウノトリも見られる様になりました。
この季節の大江山は、芽吹き始めた木々のなんともみずみずしい黄緑と古木の緑のコントラストが素晴らしく。天候のいい日も多く、太陽の光を浴びた大江山は、新緑感のテッパンです。まさに、この町にとっての非日常です。
少子高齢化、若者流出が進む年取ったこの町に、初々しさや若さ、活力を感じさせてくれます。ユーミンの「目にうつる全てのことはメッセージ」ほんとそんな気分なりますね。
生を感じ、感動する季節です。
ギリヤーク尼崎さんと同じ。人も植物も発する「生」のメッセージは、強く優しく美しく。