都市部でもトンボがツイツイと飛んでいます。空が高くなって、風もひんやり‥と書き出そうかと思ったけれど、それは昨日のお話。きょうは再び、山の向こうにでっかい入道雲を見ました。朝も晩も相変わらず蒸しています。夏の厄介者の「蚊」も今夏は戸惑っているそうですね。気温が高すぎて活動できず、これからが「蚊」のシーズンとか。
蚊といえば、地球上で最も人間を殺している生物なんですって!「わずらわしい」「かゆい」だけでなく、感染症を引き起こす脅威の存在。疫病退散を祈願して夏の前後にお祭りが多いのも、実は「蚊害」と関係していたりして・・。
最近のヨサヲさんとのお便りのテーマ、信仰と観光、からなかなか離れられません。京都市内でも「観光で食べてる寺院」なんて、ひとにぎりです。かつて、古都税の対象になったのも、市内で1600寺のうちの約40カ所程度ですからね。大多数の社寺はいま檀家の数も減り、維持だけでも苦労続きでしょう。
同じことは「お祭り」にも。有名どころといえば、上・下賀茂神社の葵祭、八坂神社の祇園祭、大文字保存会の送り火ぐらい?あとは人知れず(というか「観光客知れず」)脈々と細々と続けられている祭りがほとんどです。
この一部の祭礼に乗っかって観光誘致にバンバンと利用する京都市だからこそ、東日本大震災の「大文字被災マツ騒動」の時は、もっと地元の人たちをフォローして矢面に立って欲しかったなあ。祭りを営む人は純粋な善意だけれど、いまや「素朴な善意」で動いちゃいけない「重責」が、地元にのしかかっている気がしました。
震災と祭礼といえば、京都と東北には深いつながりがあると聞きました。八坂神社と同じスサノオノミコトをまつる祇園社が東北に特に多く、地元の鹿踊りや獅子舞と都で仕入れた祇園囃子が融合して、ユニークな「おらが村の祇園祭」になっているそうです。
夏の終わりに被災地を訪ねたのですが、震災復興、まだまだの印象でした。例えば宮城県南三陸町。かさ上げ途上のだだっ広い更地に囲まれて、43人が亡くなった防災庁舎の遺構が小さく見えました(写真)
今年は既に20個が襲来したけれど、二百十日の台風シーズンはこれからが本番。各地の夏の祭礼の祈り、天に届いてほしいです。
お盆を過ぎると、なぜか急に寂しくなります。お盆帰省で人口増した町もいつもの人がまばらな町に落ち着きました。
京都のお盆のクライマックスが五山送り火なら、こちらは宮津の灯籠流しかな。
京都が山と火なら、こちらは水と火。
7月の大雨その後の猛暑と、自然の脅威に日本中がさらされました。こちらでも、その自然の脅威で、農作物や盆花の生育に影響が出て、盆花は昨年の半分の量となりました。大都市でグローバル市場経済、日々急速に進化するIT技術に翻弄される一方、地方は、どうしようもない自然の力に翻弄されなければならない状況。都市と地方のギャップを感じるとともに、地方の、お祭りや先人を敬う理由や重要性を強く感じます。
2011年、あの時私は東京のど真ん中で、帰宅困難者となっていました。東京の公共交通インフラがクラッシュしたためで、何キロもの道をくたくたになりながら帰宅しました。疲れ果てましたが、数日後に回復しました。一方、被災地は、生死の、命の問題でした。
今回の大雨も命の問題。経済破綻や高度情報システムの破綻は、大混乱を招きますが命まで奪わない。しかし、自然は命を奪います。
まさに先人から脈々と続く自然に対する信仰、神頼みの思いを実感します。
宗教行事を観光コンテンツとして、市場貨幣経済のテーブルにあげることの是非。
自然に対する畏怖・畏敬の念、先人への敬意・感謝の行為や行事が、現在の市場貨幣経済システムでは、集客ツール、商売(ビジネス)ツールとなり経済が潤うという図式(構造)の矛盾。祭事の当事者にそんなつもりはかけらもなく、ひたすら自然や先人への感謝の気持ちだけでしょうに。
本来は(悩み悲しむ人の)救いの場所であるはずの寺院が、観光客によって(維持管理が)救われるという矛盾。京都の神社仏閣を訪れる人たちに、信仰とかの気持ちはあるのだろうか。手を合わせる行為をどう思っているのだろうか。手を合わせた瞬間、どんな気持ちでいるのだろうか。ふと、そんな疑問をもってしまいます。
信仰か観光か。ミヤコさんのお気持ち、察します。