ヨサヲとミヤコの往復書簡 京都に憧れる与謝野のヨサヲ。与謝野に憧れる京都のミヤコ。往復する2つの想いは、ただの雑感? それとも…。
クリエーター蕪村、そして若冲 平成30年8月02日

蕪村は42歳以降、生涯を京都で過ごしたのですね。
(定かではありませんが、母の故郷である与謝野より)京都が大好きだったのでしょう。
3年前、東京サントリー美術館で「若冲と蕪村」の展覧会がありました。二人は、1716年生まれの同じ年。二人の生誕300年の記念企画ものでしたが、この二人が同じ年でしかも同時期に京都にいたことは、驚きでした。
若冲は、錦小路の青物問屋に生まれ、隣町の帯屋町の町年寄りなど勤めたようですが、蕪村の住んでいた、仏光寺烏丸西入とは、「ご近所さん」だったことになりますね。彼らがお互いの存在を知っていたかどうかや付き合いがあったかどうかはわかりませんが、京都の町ですれ違っていたかもしれません。いやぁ、ロマンです。
今なら、この二人のクリエーターに京都市や広告代理店がコラボ企画を作成し、京都の街のデザインや新たな京都の魅力の発信を依頼していたかもしれませんね。二人の共同制作ポスターなども作り、しかも蕪村は俳人でもあったわけですから、二人が描く絵にすばらしいキャッチコピーをつけてくれたことでしょう。そしてその作品は瞬く間に世界中の注目を集めたはずです。(増々観光客が訪れ、京都はえらいことになっていたはず。)
与謝野町も、蕪村に「大江山山水図」を、若冲に「鶏」や「葡萄」ではなく「コウノトリ」や「ホップ」絵を発注し、町の魅力づくりにひと役買ってもらったと思います。
蕪村の感性は、ミヤコさんのおっしゃる「日本各地の豊かな自然や風土を愛しつつ、都会の喧噪も好む。」から培われたものかも知れません。
都市と地方のあらゆる格差問題が起きている現代にあって、国が取り組む社会問題、観光をはじめとする産業振興、なによりも現代人の人格形成において、今もっとも学ぶべきバランス感覚です。
ありがたいことに、ここ与謝野には蕪村の残した(今風な表現で言う)コンテンツがいっぱいあります。まずは、自らこの目で確かめて、蕪村の感性に触れてみたいと思います。

ヨサヲ
丹後から京へ。蕪村、祇園祭で大活躍! 平成30年7月28日

 「Kyoto Float Parade」やて!この英訳、100年経とうが実現しないでしょう。昔に比べてパレード的とはいえ、神事ですからね。八坂神社の氏子はもちろん、プライドの高い京都市民が認めるわけはありません。嵐のような物議をかもし、ヨサヲさんの人相書が出回り、JR保津峡駅あたりで電車を降ろされ、都入り拒否です。いえ、祇園祭保存会の刺客が既に9号線を北上しているかも。次の闇夜に警戒を!
 しかし、神様に喜んでいただくために、山車を飾り、囃子を奏で、舞い・・と考えれば、神と氏子のためのエンターテインメントであることは確かです。夜を彩る提灯も、ただの照明器具ではなく、神様に捧げる灯明の意味があるそうです。提灯が紅白なのは、神様がおられるめでたさを歓迎しているためとも。やっぱり、喜びを分かち合う娯楽という点ではディズニーランドと同じ! もしも刺客が来たら、そう伝えてください。(ただし、前から来た時のみ。後ろから来たら・・お気の毒です)
 さて、前回の書簡でヨサヲさんが教えてくださった与謝蕪村の俳句、本当に伸びやかです。母の故郷に抱かれ、こどものような素直な心になったのかもしれませんね。
 加悦への立ち寄り後、四国を経て、蕪村はついに漂白の旅を終え、京都で結婚し、居を構えました。実は蕪村宅は、祇園祭の白楽天山に近い、仏光寺通烏丸西入ル。大丸や阪急の四条烏丸駅にも近い、京都一にぎやかなところです。旧宅跡を訪ねると、祇園祭の提灯が掲げてありました。
 蕪村は、長刀鉾町にも住んだことがあるそうです。日本各地の豊かな自然や風土を愛しつつ、都会の喧噪も好む。バランスのとれた人だなあ。祇園祭に関連した作品はないかと探していたら・・あった!放火鉾の下水引幕の下絵を描いていました。鉾町にもきっと信頼があつかったのですね。うれしくなりました!

ミヤコ